日常

オリンピックに寄せて

冬季平昌オリンピックが終わりました。

日本の選手も活躍し、日本中の人々に沢山の感動を与えてくれました。選手の限界を超越した競技や演技、各選手の競技人生そのものの偉大さを目のあたりにし、魂を揺すぶられ涙した方々も少なくないのではと思います。

感動という言葉は、神動とも言うのだと教えて頂いたことを思い出します。今その意味が少し分かったような気がします。

人は神の子と言われます。それは人には神聖な部分があるからです。その人としての最も神聖な部分を、「IAM」とか、ハイヤーセルフ(神我)と呼んだりしていますが、それはハートを通してつながると言われています。

オリンピックに出る、世界中の人々の前で自分の力を出し切りメダルを取る、これは普通の生活をしている私にとってはどれだけ大変なことか、どれほど普通の生活を捨ててきたのか、知るよしもありません。

でも、すべてを犠牲にして得たもの、メダルに変えたものは、メダルの向こうにある人としての大きな成長を感じさせてくれます。

見ている人が最も感動する瞬間はとは、自分を出し切った各選手から放たれる最高のエネルギーに触れた時ではないかと思います。

オリンピック選手は、それぞれの競技という形を通して、自分の壁を打ち破り表現するに至った人の無限のエネルギーをもって、私たちの中に眠っているエネルギーを呼びさまそうとしてくれたのだと思います。

感動 ― 神動、それは選手は自分の内なる力を発揮したことにより、それをみる人々の内なる神が動かそうとしているのだと思いました。

オリンピックには沢山の駆け引きがあり、沢山のお金が動き、闇の部分も沢山あるように感じます。でもそれをふっとばし光に変えてくれるのが選手です。選手一人一人のかけがえのないパワーです。

オリンピックを観戦者としての単なる感動で終えることなく、自分たちの内なる力を呼び起こしてくれた選手たちの努力と想いに応えられるよう、今度は私たち一人一人が自分の力を信じて、精一杯生きていく番だと思います。そうすれば競技者も観戦者も参加者です。

オリンピックが単なるスポーツの祭典でなく、平和の祭典として、人類全体のの進化のために役立てることができるかどうかは、次のオリンピックまでの私たち一人一人の生き方にかかっているのだなぁと思ったりします。