日常

IQとEQ

最近、政界、スポーツ界、職場などにおけるセクハラ、パワハラ、不祥事などにうんざりしているのは私だけではないでしょう。今までトップの席で足を組んでいた人たちが、マスメディアがたくフラッシュライトの海の中で、頭を下げているシーンは日常的になりました。

日本人のように頭こそ下げませんが、こういった問題がテレビや雑誌、新聞で取り上げられているのは日本だけではありません。お隣韓国でもアメリカでもヨーロッパでも中南米でも世界中どこでもそうです。

では今の人類は進化しているのかと質問すれば、多くの人は社会は進化している、だから人も進化したと考えるでしょう。

一昔前、EQについて言及された時代がありましたが、今の若い人はEQを知っているのでしょうか。

IQは知能指数ですが、それに対してEQは心の知能を計る指数のことを言います。日本でもEQという言葉こそ使われませんでしたが、学校教育の一環として道徳教育が大切にされていた時代がありました。

私の学生時代、道徳の時間がありました。その頃、学校は点さえ取れば良いものと思っていた私は、道徳の時間は無意味、宿題をしたり、昼寝をしたりと、道徳に対して全く無関心な私がいました。「おまえは頭でっかちだ」とよく私のことを皮肉っていた祖父の言葉が今更のように響いてきます。

デジタル化が進みIT化が進んだ現代は、職場でも学校でも、私が育った時代とは比較にならないほど、「頭の良い者が勝つ」というシステムが構築されました。日本でも世界でも売り上げトップ企業はIT産業に関わるところです。

日本でもそういった世界の流れに勝とうと、日本列島全体、日常生活のいたるところでIT化、学校教育のIT化、小学校でプログラミング教育という風に進んでいます。そのような社会の進みの中では、誰が勝利者となるのでしょうか。頭の良い人たちです。

そんな中で、先日イタリアの小さな村の女性教師が何気なく語った言葉に私は小さな感動を覚え、一筋の光明を見い出した気がしました。

― 私は子供たちに知識を教えるだけの教師でありたくない。子供たちに「感情」というものを教えるのも私の役割であると。

そのため絵を描く、文章を書く、伝える、話す、話し合う、作品を創る、そういった形を通して子供たち一人一人とのコミュニケーションを彼女は今もとても大切にしています。

ポルトガルでプログラムが作れる頭の良い7歳の子供がいます。学校から帰るや部屋に閉じこもり、いつもパソコンと向かい合っています。しかし両親はこの状況を大変心配し、週末は子供が嫌がろうが、自然のあるところで過ごすことに決めています。プログラムなんかできなくて良い、人として感情豊かな子供に育ってほしいというのが両親の願いです。

では、日本の子供を取り巻く環境はどうでしょうか。

光の存在は、今の人類の進化のベースは感情とエモーションにあると伝えてきます。感情やエモーションのエネルギーはどこから来るのでしょうか。ハートです。ハートの奥の世界、心から生まれるものです。

最近、日本では高校や大学に入るための必須科目に力を入れ、そういった人の内なる資質を育てる美術、音楽教育が軽視される傾向にあると聞きます。また、海外との競争力に勝つために、国は文系より理数系に力を入れているそうです。

でもいくら頭の中の知識が増えても、それを動かすのは人であり、その人の中身です。人間との資質がものを言います。EQ、心の知能とは、自他の感情を知覚し、自分の感情をコントロールできる知能です。ITにもロボットにもないものです。

最近の目に余るスキャンダル、不祥事も、日本社会の構造的な問題だけでなく、個人、組織、社会の、IQとEQのアンバランスに大きな原因があるように思います。このまま頭の知識だけを追い求めていけば、その行きつく先はどこでしょうか?