人の想念と地球のエネルギー
交通事故は人を選びません。子供でも大人でも高齢者でも犠牲になることがあります。
よくテレビでお年寄りの方が事故で亡くなったとか報道されますが、見ている人も、お年寄りだから仕方ない、80歳も生きられたからというあきらめ感が、心理的に働かないかなと思ったりします。
一方、小さな子供や働き盛りの方が亡くなったりすると、かわいそうに、ご両親とかはどんな気持ちだろうかとか、ご家族はこれから大変だろうに、とかいった同情心がひときわ高まるように思います。
そのように、若い人の死とお年寄りの死とは、同じ交通事故でも人の感じ方に違いがあるように思います。
もちろん人の死は交通事故ばかりではありませんが、一般的に交通事故による死は病死とは異なり、突然やって来るものです。本人も家族も周りの人も心の準備ができていません。
そのため事故で亡くなる場合は、アストラル界へのスムーズな移行が難しいケースが多いようです。事故多発地帯がありますが、そのような事故が事故を呼ぶその裏では、事故死したスピリットが成仏できずに人を呼ぶと言われます。実際そのような場所ではピリットが目撃されたり、写真に何か映ったりする場合があります。
人類が幸せであるためには、まず人類の生きる土台である地球のエネルギーが良いものであることが必要です。
地球のエネルギーを汚すものの一つとして人の思念や想念が作り出すネガティブエネルギーがあります。
また霊的に見れば、人が一つの転生を終えたら思いを残すことなく、行くべき次元空間に進んでいくことが必要です。そのため、地縛霊、浮遊霊となるような死のあり方は、地球のエネルギーのリサイクルにとっても良くないものです。
そのように、「地球のエネルギー」という立場から人の死を考えた時に、人の死に方に、若いも年寄りもないのだとふと気づきました。
普段から死への準備ができていれば、問題は少なくなるかもしれませんが、一般的にはそうではありません。
特に突然死による魂の進みには問題が多く、それは老若男女関係ないようです。そのことを思った時に、老人だから仕方ないという物の見方は間違っていることに気づきました。
もちろん、地縛霊とかになるのは突然死に限ったわけではありません。交通事故について言及しましたが、人の霊的部分に関わるセラピストとして自分の想いをしかりと正していかなくてはと深い反省に繋がる気づきでもありました。