日常

生活音が消えていく

散歩していると様々な音が聞こえてきます。有り難いことに、ここにはまだまだ自然が残っていて、様々な鳥がいます。それぞれが独特の音程や鳴き方で耳を楽しませてくれます。同じ種類の鳥でも、それぞれ鳴き方や声が違っていておもしろいです。

先日7月2日には蝉の第一声(私にとっての)がありました。耳を澄ますと風の音、木々のざわめき、パタンという葉の落ちる音、川のせせらぎ、鳥が枝から枝へと飛んでいく音、自然界って結構にぎやかです。

住宅のある方向へ歩き続けていくと、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえたり、車や自転車の行き交う音、通りすがりの人たちの話し声などが耳元を過ぎていきます。

私は、時々自分の足もとを見て、自分の立てる足音を聞いたりします。そういった全ての音は、今この時を生きているのだなぁという実感を与えてくれます。

生活音、自然の音、その音を聞きながら生きることは、つい最近まで当たり前のことだったのです。

 現実から意識を遠ざけるスマホ

しかし、現在、周りを見回すとスマホをしている人でいっぱいです。スマホの普及の中、人々の意識がそういった音から遠ざかっているように感じます。

ここ犬山遊園は風景が美しいので観光客がコンスタントに訪れます。

でも突然足を止めてスマホをし始めます。木曽川沿いに腰掛けてケータイに夢中になっている人たちもいます。折角ここまで来たのに、目の前の素晴らしい光景や風、エネルギーを十分に感じることができるのかなぁと思います。

電車に乗れば皆一斉にスマホをしている光景が目に飛び込んできます。例外はケータイを持たない私を含めごくわずかな人です。

スマホで耳がふさがっている人も少なくありません。カフェに入れば、スマホをしながらお茶しています。カップルや親子の間でも互いにスマホに夢中になり、会話がありません。

ここ何年か、会社でも夫婦間でも、互いに目の前にいるのにメールやラインで会話する人が増えているそうです。どの世界も私は茅の外です。

でも想像します。意識がスマホの中の世界や音に繋がっていれば、現実の生活音は耳に入らないだろうなと。

そしてスマホの映像、バーチャルリアリティの世界に意識を釘付けにして生活していれば、自分がどの世界にいるのか曖昧になってくるのではと思ったりもします。

昔、ウオークマンが出た時、どこに出かける時もウオークマンを持ち歩いていました。しかし、2、3ヶ月過ぎた頃、ふと自分は現実の何を見ているのだろうと感じたのです。

イアホンをはずすと、周りの音が一斉に自分の意識の中に入ってきます。地面を踏んでいる自分の足が見えます。自分の動きが感じられます。

急に現実感を取り戻したくなったのです。何かが自分の居場所を確認させようとした、生きている実感を回復しなくてはという気持ちにさせた、そんな感じでした。

それ以降ウオークマンを持って出かけようとは全く思わなくなり、自分の意識を現実から遠ざけるものには興味が持てなくなりました。

意識を現実界から遠ざけたまま生きていけば、現実感がなくなってきます。そうすれば、自分の今を生きる力が萎えていきます。人は現実を生きて現実の中で大小様々な壁にぶつかり、悩んだり、苦しんだり、考えたり、喜怒哀楽の感情を育てながら、強くなり、成長していきます。

最近電話が怖い、電話で話すのが苦手という若い人が増え、就職、転職先にも影響しているそうです。昔5時間6時間と長電話をしていつも親に叱られていた私には想像つかない現象です。

 短くなっている時間、でもかけがえのない時です

最近の時間の実感は、2、30年前の三分の一と言われています。時間も光です。それがフォトンエネルギーにより、振動数が早くなってきています。今年に入り、時の流れは去年と比べて更に早いように実感します。周りでも同じような声が聞こえてきます。

 インターネットは時間泥棒

誰かがインターネットを時間泥棒と呼びました。実際ネットをしている時間はあっと言う間に過ぎていきます。

ある若者が言いました。「学生時代インターネットに夢中になっていたら、あっと言う間に10年が過ぎてしまった。10年間何をしてきたのか何も記憶に残っていない」と。青春は一度限りです。本当にもったいない話です。

どの人生にも、人生のどの時代にも、生きる意味があります。人としての学びや体験があります。

そのために、私たちには目、耳、口があります。しかし、見て、聞いて、しゃべる、この当たり前の力も、最近では当たり前ではなくなってきています。

人間力を高めるために、見る力を見抜く力へ、聞く力を聞き取る力へ、しゃべる力をコミュニケーション力へと高めて、今の時の流れを実感しながら、一つでも多くのものを吸収して生きていきたいと思います。